“ハイフォン・センス”

“Hyphone-sensitive”という投稿記事(TSL2017年12月15日号)が面白かった。ハイフォンをめぐる問題圏について議論しようとしているのだ。何でもウッドロー・ウィルソンは、ハイフォンこそが、もっとも非・アメリカ的なものだと言った。なら、ハイフォンの使用の仕方にこそ英国的な文の特長がある、ということなのだろうか。そうとも言えない。ジョイスはハイフォン嫌いで、E. M. フォスターはそれは「単なる結合」、あまり意味はない、と言った。
ハイフォンに少しこだわると、ジョージ・オーウェルのNineteenEighty-fourは、『1984年』とするのは誤りで、『1980・4(年)』と訳すべきだ、ということになる。オーウェルは、余韻を残さない政治家の話法と、受け取る側の想像力に期待する詩人の言葉との違いを問題にしている。
グーテンベルクの42行『聖書』は、forty-two-line Bibleで、ハイフォンに拘るとこれはどう読むべきなのか(訳せるか)。「40行と2行の聖書」でいいのだろうか。
この例も英国的で辛辣なユーモアの味わいがある。extra martial sexとextra-martial sexの違い。前者はもともと余計な(退屈を含意するのか)夫婦のセックスで、後者は夫婦外(つまりフリーセックスや不倫)のセックスということになるのだろうか。
我が国の国語と称される現代文における記号の使用法は、その多くが欧米の、とりわけ英語の記号法からの借用のように思える。とりわけ丸括弧がそうだ。しかし、ハイフォンの使用法は定着していない(と考えると、英語からの借用記号は総じて日本語文に定着していないと見るべきか、?は、人気はあるが庶子扱いだ)。
アドルノは、これまた我が日本人には馴染みうすいコロンとセミコロンについて、その使用法は、文学における一派を形成するほどの大問題だと言った(『文学ノート』を見よ)。私は、コロンとセミコロンの微妙な使いわけがピンとこないので(敷衍と対比という整理では不十分だ)、なおさらアドルノの指摘が重大に思える。
我が国における記号への拘りでは、岩成達也の括弧、二重括弧、三重括弧が思い起される。それは、人間の精神への内面降下のしるし、人間の内部の言葉への幾層にも重ねられる留保、としてとても興味深い。私も、ときどき真似てみることがある。