ジェニー・フィルドマン、“グリーン・ライン、エルサレムから”(タイムズ文芸付録、2018年1月5日号)

読み切れないでたまっていたタイムズ文芸付録を
拾い読みしていたら
パレスチナの今を伝える文章に目が止まった
形容詞を排した簡潔な文章
そして世に喧伝されているクリシェとは異なる
パレスチナの今の現実に触れられた思いがする
風景や事物や歴史が そして引用が
今のパレスチナの複雑な現実を語る
短いがとてもいい文章なのだ
いささか乱暴な要約だが
その雰囲気を伝えたい
そして遠いパレスチナをしばし思いたい

エルサレムから南に車を走らせる。グリーン・ライン(1949年の休戦ライン)を超えるが、それを示すもの何もない。ウェストバンクに(1967年の第三次中東戦争以来のイスラエル占領地)に入ると、丘のうえの住宅密集地が目を惹く。これからパレスチナ人の母と子供を迎えにゆくのだ。
最初の雨(?)でオリーブの木が色づき始めている。岩まじりの土地にマール・エリアス修道院が立っている。エルサレムからベツレヘムへの伝統ある祭礼行進を思いだす。それはクリスマス・イヴゥに行われる。さらに1マイルも行くと、突然“分断”の灰色の壁があらわれ道をふさぐ。ベツレヘムの検問所だ。監視塔、検問所、そしてイスラエルに働きにでる人々が順番待ちをしている。母のSと息子のYはまだ向こうの側にいる。
ハーマン・メルヴィルが1857年にこの地を訪れ、何と陰気なオリーブの森なのだと書いていた。遠くで工事のブルトーザーが唸っている。道端のオリーブに近よって見てみると、葉は茶色にひからびていた。
車にもどり待っていると、誰かが車の窓を叩く。警官に駐車場への移動を促される。
母と息子のYを探しにいくと、「タクシー?」とパレスチナ人が声をかけてくる。「アナ・タクシ」(私もタクシー)と言うとそのタクシー運転手は笑って立ち去っていった。
イスラエルNGO組織のヴォランティアが忙し気に動き回っている。パレスチナの人々は彼らをたよりにしている。とりわけ、イスラエルの病院へ行くのに彼らの助けがとても大事だ。
ついに母のSとYがあらわれた。私とSといつものように抱擁し、Yはいつものようにはにかんでいる。私たちは、西エルサレムのシャーレ・ゼデク病院に向かう。
Yは今十五歳になった。赤ん坊の時から病院通いが絶えなかった。腎臓移植も行ったのだ。
病院入り口のセキュリティは、アラビア語で話しかけてくる。母親へのいたわりを私は感じるのだ。トランクをチェックし、通されれる。
診察が終わるまで、私は友人に会う約束をしていた。以前のライ病療養所の近くのカフェに向かった。…その場所について、つまり嘗てのライ病者集落について、メルヴィルがすさまじくひどいところだ、と書いている。…今そこは西エルサレムの中心街になっているのだが、数年前まで療養所はおどおどろし廃屋だった。この地の芸術家や物好きがよく探索していた。私も訪れたことがある。「イエスは救いたまう」という刻銘が掛かっていた。鳩の糞に汚れた風呂場や草の生えた細長い部屋を思い出す。そこでプロテスタントのマラビアン教会の人たちが、ライ病患者を長いこと看ていた。1950年代、施設はイスラエル保健省に移管された。ライ病の有効な治療薬ができると、事態は劇的に改善した。文字通りこの建物は廃屋となった。…それが今やデザインやメディア、先端技術のセンタとして活気づいている。…コーヒーを飲み終え、ライ病療養所の歴史に冠する常設コーナーを見学する。ライ病(レプラ)の名前の由来、その差別の歴史についてパネル説明がある。『旧約聖書』におけるツァラアト、は神によって課された恥ずべき皮膚病という意味だった。それを『七十人訳聖書』は、腐敗・堕落を意味するギリシャ語のレプラに翻訳した。この意訳が、多くのレプラ患者を徹底的に痛めつけてきたのだった。…私達が歩いていると「失礼ですがあの建物を何というかご存知ですか」と聞かれる。その塔は見慣れたものだった。「ベツレヘム街道のマール・エリアス修道院です」と答える。「ダビデの塔はどこですか」とかさねて尋ねられる。「それは旧市街で、ここからは見えないんですよ」。ダビデの塔でのイベントが話題になっていた。つまり、オスマントルコ帝国による400年におよぶエルサレム支配の終焉を記念していた。あるいは、100年前の英国統治の始まりでもあった。…アレンビー将軍は、ベーシャバの闘いに勝利するとエルサレムに向かって進軍した。アレンビー将軍ひきいる英国の軍隊もベツレヘム街道のマール・エリアス修道院を見たはずなのだ。…当然携帯電話が鳴る。診療は終わったと言ってくる。病院に戻る車のなかでトランプ米大統領のあまりにも無茶な宣言―エルサレムイスラエルの正式な首都と認める―を聞く。…Yehuda Amichaiの詩の一節「エルサレム 開腹されたままの手術 外科医は遠い空の向こうでうたた寝している」が蘇ってくる。
帰りの車の中で、Yの診断の結果のことよりも、政治について、私たちは話したのだ。引き続く苦難と貧困にもかかわらず、Sはおおらかで、神を敬い、いつも元気で、冗談好きだ。
その腎臓がYの生命を救った。バルコニーから墜落死した赤ん坊の腎臓だった。移植手術のあと、母親は、内職にもしているパレスチナの伝統刺繍をドナーの両親に贈った。母親はNGOのヴォランティアに付き添われて、テル・アビヴ近郊の正統派ユダヤ教徒の両親のところを訪ねたのだ。暖かな心温まる交流だった。それは、今日のニュースで取り上げられた。
ベツレヘムの検問所で別れを告げる、インシャラーと。彼らの家までのそれからの道のりは遠かったのだと後で聞く。いくつもの検問所を通るたびに、バスやタクシーを乗り継がなければならなかった。私は、北に向かって車をはしらせた。カーラジオは、アラブ歌謡からドビュッシーに変わっていた。グリーン・ラインに戻ってくる。数分してまた衝撃的なニュースを聞くことになった。