レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラベル』7

7.アル・ワッザーンの沈黙
歴史(学)は、想像するヒントを提示してもらえれば十分であって、あまり説明をしてもらいたくない、と思うことがしばしばである。そのような考えに似て、歴史(学)における沈黙が魅惑的に思える時がある。ナタリー・デーヴィスのこの本も、きわめて明確に、アル・ワッザーンの沈黙に注視する。
まず、アル・ワッザーンは、1518年夏の、キリスト教徒の海賊による身柄の拘束について沈黙する。彼は、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていたがこの事件について沈黙するのだ。ついでに言うと彼の拘束については、オスマントルコのスレイマンのところに届いていた。また、改宗・洗礼についても、すぐにベネチアに伝わった。彼が、身柄の拘束について沈黙するのは、恥辱と感じたためだろうか、あるいは身の安全のためだろうか、分かるようで良く分からない。
アル・ワッザーンは、クリスチャンとしての自身について何も語らない。彼のキリスト教信仰への沈黙が、彼の改宗が偽装であることの証左である、と言うのは容易だが、それをいくら言っても、アル・ワッザーンの実態の本質は明らかにならない。
アミン・マアルーフの小説『レオ・アフリカヌス』(服部伸六訳、リブロポート)では、ドイツ人の青年がマルチン・ルターの教説をアル・ワッザーンにぶつけ、意見を引き出そうとするが、そこでもアル・ワッザーンは、新教への興味を示しはしない。
アル・ワッザーンは、アフリカはトンブクトゥまで、東はメッカを超えて中央アジアまで、欧州ではフランスまで行っている大旅行家である。しかし、バルトロメウ・ディアスの喜望峰(1448年)の発見には沈黙する。ポルトガルバチカンに贈ったインド象がローマの街をねり歩いたのだから、ポルトガルのインド洋侵出を知らないわけがないのだが彼は沈黙するのだ。
アル・ワッザーンは、多くの女(性)たちについて語った。白い服を着た母、アフリカの女(性)、ユダヤ人の娼婦、アトラス山地の女(性)、また、女(性)たちのつけるヴェールについても言葉を費やした。ただし、フェズに残してきた彼の妻については何も語らないのだ。
そしてアル・ワッザーンにおける最大の沈黙は、1527年のチュニスへの帰還以降のことだ。帰ってきた背教者の立場は非常に厳しいものだったことは容易に想像される。なにしろ彼は『コーラン』をラテン語に訳したのだ。つまり神の言葉を異教に売った。ナタリー・デイヴィスは、17世紀フランス人旅行者の記録を引いて、アル・ワッザーンの難しい立場を推し量っている。結論は、もしアル・ワッザーンに有力な後ろ盾がなければ、斬罪されていただろう、と。他方で、1535年、カール5世によるチュニスの攻略では、アル・ワッザーンが通訳として働いた可能性がある、とナタリー・デイヴィスは推測するが証拠はない。また、ナタリー・デイヴィスが残念がるのは、アル・ワッザーンが予告していたヨーロッパとアジアについての本はついに世に出なかった、ということだ。いずれにしてもイタリアにおける多産な知的活動と、チュニス帰還以降のアル・ワッザーンの沈黙の意味するところは極めて興味深い。
この本の終章は、アル・ワッザーンをラブレーに引き寄せて、論じている。それは、暴力によって分断された現代を、ふたたび多様性ある寛容な秩序を取り戻す探求のように見える。