ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論第5巻』 (今村仁司、三島憲一ほか訳、岩波現代文庫2003年刊)

ベンヤミンの著作は、日本語で読めるものは一応すべて読んだ。それで、ベンヤミンの本で今でも気になるのは何かというと『パサージュ論』で、それ以外の本は、理解が届かないのか、あまり読み返したい、とは思わない(『ドイツ悲劇の根源』は、ひどく難しいという印象しか残っていない)。それで、たまたま書店の棚で『パサージュ論第5巻』を手にとったのがきっかけで、そのまま購入し引き込まれるようにして再読してみた。

いつも『パサージュ論』を読むと思うのだが、心が落ち着く、というか静謐な雰囲気にひたれる。なぜなのだろう。もうすでに失われて久しい人々(死者たちの声)の英知・言葉・熱が、歴史の彼方へ遠ざかっていて、浄化されているからだろうか。…亡命の地パリで抜き書きを作り、メモを取り続けたベンヤミンの、不安と孤独を思うと、際立って興味深い記述があるわけではないのに、引き込まれてしまう。どのページも静かにパリの喧騒を語っているのがいい。何故だかわわからないが、とても心満たされる著作なのだ。

アドルノの書簡やロルフ・ティーデマンという編者の「付論」を読むと、『パサージュ論』が極めて重要な書物であることを教えられる。しかし、私はその意味するところをあまり良く了解できない(あえて言えばマルクスが見過ごしてしまった重要な視点への補足ということか)。しかし『パサージュ論』は読んでいてとても面白い(カテゴリーが実にイキだ、モード、太古のパリ、倦怠、鉄骨建築、蒐集家、売春等々)。

ベンヤミンはパリの街を歩きまわっていた。それはある確かな目的意識による仕事ではない。というか遊びの要素、自然な興味に寄りかかっている。が、同時に、ある種、本質的なものとの接触を感じていたはずだ。『パサージュ論』は、そのパリ徘徊の根本にある魅力と核心を、読み解こうとする試みの文書群なのだろう。