国分巧一朗『スピノザの方法』(みすず書房、2011)

スピノザには非常に熱心なファンが多いと聞いたことがある。私も、スピノザの熱心なファンの幸福にあやかりたくて、『エチカ』には、何度か挑戦した。しかし、そのたびにはじき返された。『エチカ』という素晴らしい本がこの世にはあるのだが、自分の知力では到底理解できない、という謙虚さを私は学んだ、と今では思うようになった。さらにくどく言うと、私には『エチカ』という本がさっぱり理解できないが、ぜんぜん下らないとは思えないのだ。
ところでこの本『スピノザの方法』は、初版以来七刷も版を重ねている。このようなまじめくさったテーマの本が売れ続けているとは正直言って驚きだ。が、ぱらぱらページをめくって見てみると、売れ続けている風景がみえてくる。
近年(といってもここ三・四十年という意味なのだろうが)、フランスを中心にスピノザの人気は凄まじい。フランスにおけるスピノザの再評価のうごきは、どちらかというと、近代から落ちこぼれた価値の復権を求めてある。しかし、本書が目指すところは、フランス風でなく、むしろ近代性の核心をスピノザに探り当てようとする。そして、その近代性の核心こそ方法なのである。『エチカ』にははじきかえされた私だが、他の著作とは違って、少なくとも『エチカ』には、合理性の極限に肉迫する近代性そのものの迫力を私は直観した。その点で、この本における方法という切り口は、私にとっては馴染みやすいものである。
…非常に分かり易い導入なのだ。が、このようにわかりやすく纏められるスピノザに私は物足りなさを感じる。哲学的著作に私が求めるものは、分かったような気になってその著作を卒業してゆくことではない。誤解をおそれず言えば、難解な知の酩酊を味わいたい。少なくとも私は、非常に難解だが何か深遠なメッセージ(ここで言うメッセージとは、日常感覚で捉えられることとは真逆の言説、という意味だ)をほのめかすスピノザのままでいい。