W. G. ゼーバルト『アウステリッツ』(鈴木仁子訳、2020年白水社刊)を読む

小説の書出しがいい。……六十年代、ベルギーや英国によく旅をした。半ば仕事、半ば目的の判然としない小旅行だった。アントワープの動物園を訪ねた。いろいろな動物の異様な姿に惹きつけられた。
駅舎の待合室(“失われた歩みの間”と大仰な名で呼ばれる、本当だろうか)でアウステリッツというちょっと風変わりな人物に出会う。アウステリッツは、建築史の研究者で、その後、リエージュや英国で、偶然にも再会することになるのだ。

小説を読み進んでゆくと、アウステリッツの建築への興味の根に、二つの影がさしていることに気づく。パリにいる時、アウステリッツは、毎日のように駅舎を訪ねた。蒸気機関車に引かれた列車が、煤けたガラスの天蓋をもつ構内に入ってくるところを見るのが好きだった。これは、小説を読み進むとハッキリするのだが、彼の幼少期の記憶と結びついている。他方で、おもに近代の大きな歴史建造物への興味は、権力というものに結びつく。権力と自分との望ましくない関係への恐怖と好奇心が底流にあるようなのだ。

作家は、何度かアウステリッツに手紙を書くが返事はない。理由は、どうもドイツという国にあるようだ、と作家は考える。……この小説は、全体に、手紙をだしても返事のないような、ある一方的な方向をもつ物語なのだ。その一方方向とは、ある贖罪を、意味しているようなのだ。

アウステリッツは、少年期をウェールズの寒村の牧師館で育てられた。だが、牧師夫妻の謹厳な生活とおぞましい説教は、安易な記述に見える。資料に忠実すぎないか。ただ、牧師の呪い、あるいは、深い悲しみの中で、水中に没した村と人々を思う時、ゼーバルトの描く幻視は美しい。…ダムの底に沈んだ村の人々は、今も水中で生きているのだ、と。人々は、泳ぐようにして歩いているのだ、と。

アウステリッツが、あるラジオ番組で偶然耳にしたことをきっかけに、彼の謎めいた過去の断片が蘇ってくる。それは、プラハ、パリへの旅することによってより現実味をおびてくる。プラハでは母を、パリでは父の、見えない足跡をたどる。……W. G. ゼーバルトは、極上の織物を紡ぐように素晴らしい文を織り上げる(日本語の翻訳は、ドイツ語原文の素晴らしさを伝えてくれている、と思われる)。そして、ゼーバルトは、文の質、文そのものによる酩酊をさそうばかりでなく、物語としての興味を同時に喚起できる作家なのだ。それも、贖罪の物語においても-もっとも困難な小説のテーマに思える-スリリングな読書を約束してくれるのだ。

アウステリッツの存在の感覚は、自分が、仕事仲間にも、社会階層にも、どんな宗教的グループにも属していない、と思わせる。深い友情を示す再会、かすかな恋愛感情に似た交流もあるにはある。だが、主調音は孤独であり、アウステリッツは孤独の王国に生きる王子のようだ。

この小説は徹底して過去にこだわる。一切の未来への通路は閉ざされている。……このように過去ばかりにこだわっていていいのだろうか、と凡夫は思う。しかし、どのようにも現代に折り合いがつかないなら、過去への遡及を繰り返すことがより良く生きることになるかも知れない。少なくとも、アウステリッツにとって、過去への旅は、今を生きている以上にリアルなのだろう。

『アウステリッツ』という小説は、文体と物語の両方において優れた小説だ。しかし、私には苦手なところのある小説でもある。その難しさの核心は贖罪だ。そして、ゼーバルトが扱う贖罪は、自分が、あるいは誰かが、誰かに対して実際に行った加害ではなく、ドイツという国とその国民が、ある時期、狂気がかった独裁者を支持し、その独裁者の号令の下にユダヤ人を始め多くの人々を虐殺、ないしは完膚なきまでに痛めつけた、ことに対する贖罪なのだ(小説では、チェコのテレージエンシュタットの殺人工場が取り上げられる)。つまり歴史的な出来事に対する贖罪なのだ。個人が、ある歴史的出来事に対し、罪過をあがなおうとすることができるのだろうか。私はできないと思う。なぜなら、個人と国民とは連続していないからだ。しかし、ゼーバルトは、この不可能なことをやろうとしている。この試みは作家の良心を表現している。しかし、小説は、良心よりも、人間の悪を描くようにできている。

ゼーバルトのこの小説は、だれがその話をしたのか、を曖昧に調和させない。ヴェラは、……と語った、とアウステリッツは言った、というように誰が語っているのかを愚直なほど生真面目に書く。要約は、一般に、いつしかそれを語った者を曖昧にぼやかし、語った主体をその要約のなかに溶解させるのをつねとする。だが、この語る主体についてゼーバルトの実に頑迷なのだ。このゼーバルトの試みは、とても貴重な気がする。理由はいろいろに解釈できるけれども、この作家の姿勢・戦略を、直観として、強く支持したい。