カルロ・ギンズブルグ『ベナンダンティ』(竹山博英訳、せりか書房)

16~17世紀にわたって、北イタリア、フリウリ地方で“ベナンダンティ”と称する人々が、収穫の豊穣のために、魔女や魔法使いと、夜の戦いを行うのだった。歴史家は、異端審問所の調書を読み解き、“ベナンダンティ”の活動のいくつかの側面を明らかにしてゆく。
ベナンダンティ”の活動は、キリスト教到来・確立以前の、欧州における豊穣祭の特長を色濃くもっていた。ウイキョウやモロコシの房を武器に見立て、野ウサギや豚にまたがり(それは、ある種滑稽であり、農民たちの素朴な信仰を偲ばせる)、魔法使いと戦うのだ。ベナンダンティ(本来は良き人々の意)が勝てば豊作となるのだった。
ところでキリスト教教会は、なぜ、農民の素朴な信仰・祭りに似た模擬戦を抑圧・排除しなければならなかったのか。理由は、調書には表れていないが、当時のヨーロッパには、魔法使い(これもキリスト教会側の見方)が至るところにいて、彼らが、民衆の病の治療にあたっていたばかりでなく、農民のよろずの悩み・苦しみに向かいあっていた。彼ら“魔法使い”たちは、教会の聖職者よりも民衆にとってたよりになる者たちであったのだ。古い、キリスト教到来以前の信仰の継承者(つまり異端)でもあった魔女たちは、民衆救済のノウハウをもっていた。教会にとって重要なのは、超自然のパワー(ある場合には奇跡なのだろう)は、イエスキリストと教会の専有物でなければならなかったのだ。ベナンダンティは、魔法使いではないのだけれども、教会はその同類として裁きたかったようだ。
夜の戦いは、実際に行われたのか、あるいはある種想像上のことなのか、調書の記述は必ずしも明解ではない。また、ベナンダンティの活動と、病理(てんかん発作など)との関係も複雑である。良く分からないけれども、この本で大事なのは、ベナンダンティの変質なのではないかと、と思うのだ。つまり単純に言うと、もともとは豊穣を祈る素朴な悪魔と戦う祭りが、教会のために魔法使いと戦う良き戦士となり、やがては魔法使いとの契約を自白し、最終的には、魔法使いを教会に密告してゆく側になるのだ。
この本を、ヨーロッパの古層の信仰生活を想像させる素朴で大らかなフォークロアとして楽しみながら読んでいくと、何か、現代にも通じたある時代への疑念が湧いてくる。新しい思想(キリスト教)は鋭く進歩的で強烈だが、大らかな古きよきものを否定し消し去る。それを進歩と言うのかも知れない。そして現代とは、その種の新しい革新思想による古き良きものの否定の上に成り立っている、可能性が大いにありうるのだ。多くの人々にとってそれは必ずしも居心地の良いものではない。