兼好『徒然草』(島内裕子校訂・訳)

今回、兼好の『徒然草』を、通読してみて、大変に面白かった。兼好には、いろいろな側面があるけれども(歌詠みや、有職故実についての拘りなど)、私にとってとりわけ興味深かったのは、いわゆるコミュニケーションへの絶望(人は分かりあえない)と孤独を語った個所だった。
「同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしき事も、世の儚(はかな)き事も、心無(うらな)く言い慰まんこそ嬉しかるべきに、然(さ)る人有るまじければ、つゆ違(たが)はざらんと向かひ居たらんは、一人有る心地やせん。」(第十二段)
 出家することの意味が半分分かったような気がする。
ところで、兼好は、上記のような孤独を語るけれども、あらゆるコミュニケーションの回路を本当に絶っていたとも思えない。なぜなら、もしそうなら、次のような嘆声は聞かれない、と思うからだ。
「日、暮れ、道、遠し。我が生(しょう)、既に蹉跎(さだ)なり。所縁(しょえん)を放下(ほうげ)すべき時なり。信(しん)をも守らじ。礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ。現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉むとも、聞きいれじ。」
 格好いい。凄まじい。世のしきたりと化した偽りを断固拒む。誰にでもできることではない。少なくとも私にはできない。しかし、憧れる。…無意識に礼をかくことはあっても、礼儀に頓着せず生きるのは、かなり難しい。