『太平記(一)』(兵藤裕己校注、岩波文庫)

おそるおそる『太平記』を読み始める。時々、注を見ながら、二度ぐらい読むと、大体理解できる。…分かることが嬉しい、というより面白い。たとえば、出産の祈祷を装い、倒幕の祈祷を続けたのだという。連日、内裏全部が護摩祈祷の煙に覆われた、と。おどろおどろしい絵が目に浮かぶ。そして後醍醐天皇密教との関わりを思う。無礼講の酒盛り(無論、統幕の謀議・協議が真のテーマである)で、そこに呼ばれた高位の僧侶が、流罪についての中国の詩を講じ(韓愈が罪を得て配流される)、人々の不興を買ったのだと言う。僧侶は倒幕の動きをまったく気付いていなかった。古典を得意に論じる高位の坊主が、緊迫した情勢をまったく察知しえない。ありそうなことだ。ひどく緊張した場面で、図らずもとんちんかんなことをしでかす秀才、という構図に笑いがこみあげる。謀議が露見する件(くだり)がまた何とも味わい深い。夫のただならぬ風を見て「あやしや」と思った妻は、夫から謀反の計画を聞き出し、一族郎党の滅亡を避けるために、鎌倉方に陰謀を密告するのだ。人の良い武士としっかりものの妻という対照も面白い。
私にも理解・共感ができる人々の姿、そして中世的なものの迫力(内裏を覆った護摩の煙が表徴するのは、天皇の祈りではなく呪詛の強度だ)、また、敵味方でも、勧善懲悪には堕しない両義性がいい。たとえば、延暦寺衆徒の奮戦を意気阻喪させたのは、後醍醐天皇自身の戦術上という以上の判断ミスだ。天皇は、自分の身代わりをたてるアイディアに違和を感じながらも黙認してしまう。この種の、何とも痛ましいミスが、この『太平記』では、これからも繰り返されるのだろう。