実娘によるジャック・ラカンという父

“ロンドン・レビュー・オブ・ブックス”(6月20日号)のページをパラパラめくっていたら、ジャック・ラカンについての記事が目にとまった。何でも、ラカンの娘の回想記(シビル・ラカン『謎としての父』、原著1994年刊)の英訳が今回出版され、それについての書評エッセイなのだ(Lili Owen Rowland, Something that Wasn’t There.)。
ラカンの著作については、私は、何度か読もうとして手にとった。が、どうにも難解で全然歯がたたない。だが、テクストに拒まれた分、ラカンは気になる存在なのだ。
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ブーローニュの森のどこかで、シビルと弟のチボーは、車を運転する父を目撃する。私たちは、父の車の方へ駆けてゆくと、父は私たちを認めていたにもかかわらず、父の車は走り去ったのだ。誰か見知らぬ人と父は一緒だった。
子供の頃のシビルの回想は哀れなものだ。父が、別の女性(ジョルジュ・バタイユの元の妻)のところへ去ったあと、父はごくわずかな養育費しかよこさなかった。
大学生になった頃、ラカンはシビルを豪勢な夕食に招いた。シビルは、初めて、生牡蠣とエビの料理を食したのだった。それは、また、シルビアとの間の娘ジュディトゥとの面会の機会でもあった。彼女は美しく、堂々として、知性的であった。シビルは圧倒され、嫉妬とコンプレックスを十分すぎるほど味わう。ジュディトゥは、すでに知的社会の花形で、自分は「ダニューブの百姓娘」である、と。
ジャック・ラカンの成功は、彼の特権的なエリート意識をさらに増長させ、それとともに、彼の漁色家の本性をあらわにしてゆく。たまに現れる父は、シビルに男友達の名前をたずね、アホとだけは一緒になってくれるな、と笑うのだった。
21歳のシビルが、突然、不可解な精神的な病を発症する。その病から、シビルは生涯癒えることはなかった。ラカンは、シビルの病を、彼女と彼女の母マルーとの歪んだ癒着のせいだと言い張った。(ラカンともあろうものが、このような紋切り型の推量を、本当にしたのだろうか。)
シビルは、父が涙するのを二度見た。モーリス・メルロ・ポンティが亡くなった時と、シビルの姉カロリーヌが、酔漢の運転する車に轢かれて死んだ時だ。(ジャック・ラカンは、前妻の家族を冷遇した、しかし、その家族を冷遇しながらも深い愛情を感じる時があった*1ことが、面白い。) ラカンは、カロリーヌのミドルネームを、イマージュと名付けたのだという。
ラカンの死後(1981年)、シビルの側(前妻とその子ら)とジュディトの側(後妻シルビア・バタイユとその子ら)とが、ジャック・ラカンの遺産を巡って争うことになる。1991年に決着するが、遺産の大半はジュディトの側に渡った。シビルは、あの有名な灰色のソファー(診察用のものだろうか?不詳)を譲り受け、それを98,000フラン(1フランを50円とすると、約50万円)で売った。
シビルの社会生活への不適合と強度の自己嫌悪は、父ラカンを尊崇する気持ちと、彼が彼女の家族を見捨てて恋人のところへ走ったことと関係がある、とシビル自身は、その本で述べている。シビルの晩年は、長患いの精神疾患にくわえ、理由の分からない子宮の痛みに苦しんだ。2013年11月、シビルは72歳で自死を遂げる。知の巨人に見捨てられた娘の痛ましい死、と言えないどあろうか。

*1:ように見える