藤澤清造『根津権現裏』(新潮文庫、原著1932年刊)を読む

根津権現裏』を読み始める。面白い。このような私小説を読んでいると、私小説だけを読んでいたい、という気持ちになる(ゼーバルトの一人の感覚も悪くなかったが…)。もっと陰惨なものかと思っていたが、ある種、明るくすっこ抜けたところがある。

貧しい上京青年の理想主義と世間の俗物との対比が、この小説の根にある。理想主義的なのは、自死した親友の岡田と自分だ。小金にけちけちしている岡田の兄と、会の金を横領した宮部が俗物になる。ただ、この対比が図式的に展開しているわけではなく、岡田の理想主義も、精神衰弱によるのか迷走するし、宮部の横領にしても、そこには他人に伺い知れない事情があるはずで、それを自分(谷口)は知らないのに一方的に非難はでいない、と至極まっとうな見識を示す場面もある。

根津権現裏』は、貧しさを(金欠のやり繰りを)、病を、欲情を、無学歴をこれでもかとこれでもか繰り返すような小説ではない。貧困、宿痾、買淫、向学心はあっても、吝嗇で卑しい俗世間にまみれることを潔しとしない、人々についての小説なのだ。

自死した岡田の兄の故郷(石川県)の方言がいい。「ほいからどなったいね」と、兄は、臆することなく方言で話す。他方、岡田にしても、自分(谷口)にしても、標準語を操るのみなのだ。兄の方言には、土地とは切り離せない、ある種の安定感がある。標準語の達者な青年達は、知的で理想主義的であっても、弱々しい。

根津権現裏』は300頁まで読み進む。岡田の自死めぐる謎解き(岡田を死に至らしめた本当の理由は何なのか)に傾いていく。私小説のもうひとつの可能性を示していると評価する向きもあろうかと思うが、好悪の分かれるところだろう。しかし、これもまた私小説と考えたい。その意味で『根津権現裏』は、きわめて実験的な私小説なのである。