ケン・ローチ監督の映画“家族を想うとき”を見る!

今評判になっている“家族を想うとき(Sorry We Missed You)、2017年”は、まったく首肯できない映画だった。映画監督の巧みさはある。魅力的な俳優を使い(特に母親役が、どこにでもいそうな普通の人でありながら不思議と魅力的だ)、観客が感情移入しやすいような筋を作り(反抗的な息子は、実はとても頭がいい)、そして未来を少し先取りした誇張(宅配運転手のもつ端末コンピュータは、すべての情報を集約し、ドライバーを案内し監視する)が娯楽的だ。しかし、問題は、ドグマ-格差社会のなかで、過酷な労働と収奪が家族を破壊してゆく-が先行し、ドグマが先にあって映画作りが行われていることだ。格差社会についてのドグマは理解できる。が、映画、文学、芸術は、ドグマを描くものではなく、分からないが気になる現象を描くことに意味を見出し、価値を明らかにしてゆくものだ。“家族を想うとき”という映画は、何か、説教を聞かされている気分になる。