レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラヴェル』2

Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds (2006)についてのノート

 
1518年夏、アルワッザーンは、チュニス沖でキリスト教徒の海賊に捕らわれる。彼は、トリポリで調べをうけたあと、彼の並々ならぬ知識・情報が高く見積もられたのか、バチカンに移送されるのだ。往時のローマは、オスマントルコの圧力、ルネサンスの熱気、ルターの宗教改革に揺れていた。
アルワッザーンが捕らわれていたサンタンジェロ城には、ボナベントゥーラもいて、彼についての言及の証拠はないけれども、ボナベントゥーラの噂を聞いていたに違いない。著者のナタリー・デイヴィスは、その同時代性がとても気になるようだ。サンタンジェロ城におけるアルワッザーンの扱いは緩やかで一定の自由もあった。バチカンの大図書館のアラビア語本も借りだし読むことができた。
教皇レオ5世との謁見は印象的だ。アルワッザーンは、教皇の対トルコへの姿勢を見誤らなかった。レオ5世のトルコへの強硬姿勢に、アルワッザーンの影響があったかもしれない。
長引く勾留のなかで、アルワッザーンは、自分の行く末を何度も考えたに違いない。ベネチアチュニジアとの連合で、それに自分が加わることで、自分はもう一度故国に帰れるかも知れないと思った。また、囚人のままでいるのか、奴隷となるのか、という重圧がつねにあったのだ。
1520年、アルワッザーンは、洗礼をうける。ソウソウたる名士が証人となった。以降、アルワッザーンの強力な後ろ盾となるのは枢機卿エジディオ・ダ・ヴィテルボEgidio da Vitelboだった。彼は、教皇の浪費・放蕩を可能にした財務官だった。
解放されたアルワッザーンは、ローマの路上にでた。ローマを歩き、自分がこれまで見知っていた街とくらべてみた。また、さまざまな言語が飛び交うローマに彼は驚き興奮した。そして、彼は翻訳の仕事に勤しんだ。外交文書の翻訳ばかりでなく、『パウロ書簡』を、より正確な『コーラン』のラテン語訳も行っている。
アリストテレス学者のアルベルト・ピオAlberto Pioの屋敷を舞台とする当時の知識人との交流が感動的だ。ルネサンス人文主義アラビア語文献の助けを借りてギリシャの古典の再発見に至ったのだとは、よく聞く話だが、この本を読んで、その実相、具体的ディティールに初めて触れることができた。アルワッザーンは、イスラムにおけるイエスキリストのメシアとしての意義を説いた。ピエリオ・Pierio Valerianoとは、動物に関するシンボリズについて議論を行った。歴史家のパオロ ジョヴィオPaolo Giovioとは、オスマン朝のスルタン、セリムについての情報交換を行った。ただ、ヴァレリアーノは、アルワッザーンとの交流は明らかであるにも関わらず、彼への言及を行っていない。アルワッザーンのキリスト教への改宗には、信頼にもとるところがあると判断していたのかも知れない。知に関する同志であっても、信仰上の同志ではない、と。

(つづく)