『ウソつきの構造・法と道徳のあいだ』角川新書、1919

久しぶりに中島道義の本を読む。なかなか厄介な問題を投げかけている。われわれの退廃の根本は何か。真実を、具合が悪いと覆い隠すことだ、あるいは別のこと(ウソ)を言うことだ、と。誠実(内面的な道徳意識)とは、どんな場合にも(親のためでも、組織の防衛、その組織に携わる多くの人々の不幸を招くとしても)、ウソを吐かないことなのだ、と。
この本で批判・検討されるのは、日常的に繰り返されるお世辞のようなウソではなく、「法に守られたウソ」だ。「法に守られたウソ」とは、たとえば、安部首相にまつわる森友・加計問題だ。どう考えても、安倍首相の事件への関与は明白なのに、証拠が出ない以上は、知らないとウソを吐きとおす。確かな証拠がない以上、近代法は裁けない。安倍首相は、ウソでも関与を認めずに政権を維持することが自民党の利益であり、ひいては日本のためでもある、と信じているのだろう。
このようなウソがまかり通るということこそ、この日本で巨大な道徳的退廃が現在進行しているのだと、中島道義は訴える。そのような「法に守られたウソ」を容認する我々の退廃を突く。
しかし、中島道義が依拠するカントの理性主義は、私の感覚からすると、何かとても窮屈だ。理性で推し量られる真理もまた限界がある、と言いたくなる。
されど、ウソは、人間を退廃させる、こともまた確かなことなのだ。
真実はこみいっている。それを十分に説明し納得してもらうことは非常に手間暇がかかり、かつ難しい。こみいった事情をウソによってうまく説明する人たちがいる。手慣れたその種のウソをつく人にはなりたくない。