ドストエフスキー『罪と罰』(亀山郁夫訳、光文社文庫、原作初出1866年)

ドストエフスキー罪と罰』を、また読み始める。今度は、最後まで読み通そう。

罪と罰』を読み続ける。つまらなくないが、私はかなりの程度、小説好きではなく、エッセイの方を好むのかも知れない、と思い始めている。

罪と罰』、面白い。次々に出来事が繰り出されてゆく。しかし、田舎のまじめで優秀な青年の悩みに関する小説だ。それは、ノスタルジックにさえ見える。

1969年をピークとする反体制運動における内部矛盾を思うとき、ドストエフスキーは輝きをもっている。これは、埴谷雄高等が語ったことだ。小林秀雄ドストエフスキーは何を語っているのだろう。…理念による破壊の正当化とその退廃を、私は考える。

罪と罰』が面白くなってきた。1巻を読了。真面目腐った議論を緩和しているのが推理小説的な展開だろう。だが、もっと面白い推理小説はごまんとある。

罪と罰』、ドゥーニャは、婚約者ルージンと喧嘩別れとなる。ドストエフスキーは、金がすべてではない人々を描いているのだ。あるいは、人間の破滅への夢(フロイトのいうタナトスに近いか)を描いている。また、世渡りがすべての俗物を憎々しげに描いている。

ペテン師で好色漢のスヴィトリガイロフの自死は一体何を意味するのだろう。
スヴィトリガイロフの死は、19世紀的でロマンチックで予定調和的である。
彼が、生きのびて悪事を重ね、快楽を追求してゆく姿こそ現代的なのだが…。

ドストエフスキーは、何を描いているのだろう。…神を信じている人々を描いている。主人公は、無神論の立場を明確にしているが、神を信じる人々の存在を、否定できないだけではなく、尊重せざるをえないようになってゆく。

罪と罰』、快調に3巻、380頁まで読み進む。面白いが、人生ということを口にだして悩む19世紀の小説で、私のものの考えかたを根本から揺さぶるものではない。ゼーバルトの小説にある今を生きる希薄な感覚のリアリティーはない。『罪と罰』には、明瞭な狂気がある。今の私には、明瞭な狂気よりも澱んだ、明確な輪郭をかく現実感覚の方が、親しめる。
(『ハムレット』の狂気は、ドストエフスキーの心理学の教科書で学んだような狂気よりも深い。)

罪と罰』は、結局のところ、19世紀の小説である。ラスコーリニコフの苦悩は、ソーニャの理性を超えた愛情によって救済される。ソーニャは、ラスコーリニコフの理屈を肯定しないが彼の苦悩を認める。少なくとも、私にはそう見える。…現代ならば、この関係はないだろう。現代のソーニャは、ラスコーリニコフから去ってゆくのみだ。