レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラヴェル』3.

Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds (2006)についてのノート

1524年には、また異人が現れキリスト教徒とユダヤ人による反トルコ連合を提唱し、ローマの人々を騒がせた。ティルベ川の河口で、チュニジアの海賊が教皇庁の船舶を拿捕する事件なども起きた。

アル・ワッザーンは、他のムスリム接触することは極めて危険だった。
ただ、当時のローマには元ムスリムの奴隷が数多くいた。家事を担う奴隷は、例外なくキリスト教へ改宗させられたのだ。そして、アル・ワッザーンとは異なり奴隷の洗礼は簡単なものだった。ただ、そのような改宗が制度化するのは1520年代のことになる。また、驚くべきことに(いや、当然起こりうべきことに、と言うべきか)、ローマの上流人士の中には、元ムスリムの奴隷との間に子をもうけることが少なからずあった。実際、アル・ワッザーンが住む界隈には有色人種の女主人の家が稀にあり、それは何を意味するのだろうか。

1523年、アル・ワッザーンは、ボローニャを訪れている。絹製品、工芸品が溢れる豊かな街を見て、彼は北アフリカの諸都市を思い比べた。また、アル・ワッザーンはボローニャの大学を見て感激している。伝統ある知の壮大な構築物をアル・ワッザーンは想像したのだろう。だが、ボローニャがアル・ワッザーンに特別な意味を持つのは、ユダヤ人の医師マンティーノとの出会いだ。マンティーノとは、まずペルシャ医学への興味を共有することができた。アル・ワッザーンは、ローマを超え彼のアラビア学を深く豊かにする契機を掴んだのだ。
マンティーノは医師であるとともに占星家であり、そして何よりもアリストテレス哲学を研究する哲学者だった。マンティーノは、アリストテレス理解のためにアヴェロエスやマイモニデスの著作の重要性をひしひしと感じていた。マンティーノは、アル・ワッザーン助けを借りて(アル・ワッザーンは、マラケーシュで、アベロエスの墓を訪ねている)、アヴェロエスアラビア語で書かれたアリストテレス論を読み、ラテン語に訳したのだった。

アヴェロエスもマイモニデスもアンダルス地方コルトバ出身のユダヤ人だ。生きた時代も重なる(12世紀)。ただし、現代の史家は、二人の交流の可能性を否定する。イスラム圏で抜きんでた知を誇るユダヤ人学者が、アラビア語で著述し、それがルネサンス期のイタリアで研究される。本来はラテン語のテキストも、欧州ではその多くが失われアラビア語の翻訳でしか読めなくなっていた。今では考えにくく、初め私には錯綜してみえたが、次第にダイナミックで何とも輝かしく思えてきた。それは、この本『トリックスター・トラヴェル』の重要な主題の一つだからである。

                                   (つづく)