レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラベル』4

Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds (2006)についてのノート

アル・ワッザーンは、アフリカについての草稿をチュニス沖での拿捕の際にも、肌身はなさず持っていた。アル・ワッザーンのイタリア在留時代は、気の滅入るつまらない仕事も多かったが、それらをこなしながらあの偉大な『アフリカ誌』をものしていった。
アル・ワッザーンは、自ら『アフリカ誌』の原稿を書いていった。イブン・バトゥータの『大旅行記』が聞き書きであったように、イスラム世界では、長いこと、書物は筆耕による聞き書きが主流であった。1526年に彼は少なくとも2部の『アフリカ誌』を作りあげた。
10世紀の著名な地理学者アルマスーディにとって旅は極めて重要な情報源であった。しかし、彼の関心は、言語・人々・イスラムに限られていたのだ。それとは反対に、アル・ワッザーンの『アフリカ誌』は、地誌であり、歴史書であり、旅行記であり、逸話集などによる混合物なのだった。
興味深いことに『アフリカ誌』には、西欧流の地図はついていない。場所は、ある土地からの旅程であらわされているに過ぎない。西欧の地図は、アル・ワッザーンには馴染めなかった。彼にとって旅が重要なのは、証拠だてるものではなく、彼の人生そのものであり、山と砂漠は、聖なるものと出会う場所だったからだ。
アフリカは、アラビア語でイフキリアという。本来は、チュニスのあたりを指す言葉だった。他方、マグレブは、アラビア語で西の意味だ。ある全体をアフリカと呼ぶようになったのは、ヨーロッパの側からだった。逆に、アウルーファというアラビア語はあったが、当時誰もヨーロッパとは言わなかった。ヨーロッパやアフリカと呼ばれるようになるには、16世紀になってより広い世界なるものが意識されてからなのだ。
アル・ワッザーンは、アフリカとヨーロッパという語を用いて彼の地誌を書き進めた。
彼にとってのアフリカとは、バーバリ(チュニスからアトラス山脈を含む北アフリカ)、ナンビア、リビア、そして黒の土地とを指す。エジプトの捉え方は議論のあるところのようだ(ナイル川と紅海のどちらがアフリカとアジアの境になるか、という問い)。
アル・ワッザーンは、アフリカに住む人々の特長を描く。ベルベル人の源は、地中海岸の白色人種であり、その方言にも言及する。コプト人や、エジプト人について、さらに興味深いのは、北アフリカのいたるところにいたユダヤ人についてアル・ワッザーンが言及することだ。その場合のユダヤ人とは、遥か昔にユダヤ教に改宗したベルベル人や黒いアフリカの人々も含まれる(ユダヤ人とは、ここでは血のつながりではなく同じ信仰をともにする人々の呼称になっている)。
それらアフリカの土地と人々の多様性をアル・ワッザーンは語りながら(たとえばエジプトやコプトやナンビアの乱れたアラビア語について論じる)、他方で、アフリカの統一性を主張する。彼は、それらの人々のすべてがノアの末裔だと言うのである。イタリア人の読者の前で、アフリカの人々の肌の色、隷属性をアル・ワッザーンは直截には語らない。ただ、彼らの祖先がノアであることを言うのだ。彼はアフリカの差異への関心をしめしつつ、最終的にはその統一像に向かう。
未開で野蛮な人々も預言者の教えで、文明化していった。ムスリム特有の「神の祝福がありますように」といった呼びかけや、長たらしい神への祈りを避けながら、預言者への信仰がアフリカを統一する、と言う。これは、イスラムの教えを直接もちださないで、イスラムの教えの卓越を説いてはいないだろうか。いずれにしても、アル・ワッザーンのアフリカとは、ムハマンドの教えによって結ばれた大地なのである。

(つづく)