レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラヴェル』

Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds (2006)についてのノート

 
ラテン語名、レオ・アフリカヌス、通称アフリカ人ジャン・レオン、もともとはハサン・ブン・ムハマンド・アルワッザーン・アッザィヤーティと言う。スペインのアンダルス地方グラナダに生まれ、15世紀後半のレコンキスタの圧力でモロッコのフェズに逃れそこで育つ。法学と修辞学を修める秀才だった。だが戦争がアルワッザーンの勉学を支えていた学資基金の存続を困難にした。治療院で働くかたわら、学友との交流で独学に励む。
アルワッザーンはよく旅をした。役人のおじにつきしたがって、北アフリカやサハラ、またチンブクまで足をのばしている。アフリカの王朝について記録するばかりでなく、その土地のゴシップも収集している(たとえば聖人のスキャンダルなど)。ところで旅は、多くの場合、ムスリム達の得意分野なのだ、ということを思い出す。
やがてフェズのスルタンの外交をになう使者となる。外交官と一言では言えない気がする。なぜなら、アトラス山脈の寒村に赴けば、判事の役も引き受けるからだ。…カイロのマムルーク朝では、正式の接待を受けられなかった。マムルーク朝の関心は、紅海とインド洋のポルトガル勢力にむいていてマグレブはさほど重要ではなかった。イスタンブールにゆくと、セリムはシリアでマムルーク朝攻撃の準備中だった。オスマントルコの高官がアルワッザーンを迎えた。アルワッザーンは、船でカイロにもどりジャニサリー(オスマントルコにおけるキリスト教徒子弟による最強近衛師団)による略奪の後を自分の目でみる。アルワッザーンは奇妙な、割り切れない感情に捕らわれる。
1518年夏、事件はチュニス沖の島の近くで起きる。アルワッザーンは、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていた。海賊に捕らわれたアルワッザーンは、スペインの支配するトリポリに連行された。身代金を要求できる人物なのか奴隷として売るのか、訊問をうける。アルワッザーンのもつ情報が重要であると、トリポリの訊問官(!)は判断する。アルワッザーンは奴隷として売り飛ばされる不安を感じながら多くを語り、もしかすると自分を売り込んだのかも知れない。
アルワッザーンは、バチカンサンタンジェロ城に移送される。メディチ家出身の人一倍好奇心旺盛だった教皇レオ5世がアルワッザーンに興味をもつのだ。
(つづく)