兼好『徒然草』(島内裕子校訂・訳、ちくま学芸文庫)

日記を書きためていた人が、死んでいくとき、それをよく焼き捨てる。それはどうしてなのだろう。分かるようだが、うまく説明できない。『徒然草』第二十九段で、兼好は「人静まりて後、長き夜の遊びに…」もう処分しようと反古などをひっくりかえし見ているともう死んでしまった人々が思い起されて実にしみじみとする、と書いている。好きでしみじみとするのは良いとしても、この世を去っていく人にとっては、あとの人に余計な思いをさせまい、私はこれでおしまい、でいいと思う人が多いのではないか。だから、日記や手紙を焼き捨てる。
ボルヘスも面白いことを言っている。死者が、人々の記憶にあるうちは、その人はまだ生きているのだと。霊は、人々の記憶のなかで生き返る。いや、兼好にしたがえば、人間の存在は、生きているよりも、死んだあと、人々の記憶に蘇るとき、よりいきいきとしてくる。…兼好は、生そのものよりもその抜け殻がいとおしい、と繰り返して言っているように思える。それはある種の人間、現実や生活を拒む人間にとって真実に違いない。