レオ・アフリカヌスあるいは『トリックスター・トラベル』6

6.トリックスターとしてのアル・ワッザーン

アル・ワッザーンは、友人をむち打つ話と住みかを変えて税を免れる鳥の話を好んだ。
友人をむち打つ話というのは、ある男がむち打ち刑の判決を受けるのだが、そのむち打ち刑の執行人が実は友人で、男は友人の執行人に同情を期待する。友人の執行人は、情け容赦なくその男を打つ。男は、鞭打たれながら叫ぶ「友よ、お前は友にこのような仕打ちをするのか」と叫ぶのだ。それに対する執行人の言葉が面白い。「友よ、我慢してくれ、私は行うべき義務をはたさなければならないのだ」と答える。
また、税を免れる鳥の話はこうだ。
「昔一羽の鳥がいた。その鳥は丘でも海でも生きていけた。鳥たちの王がくるまでは、空で仲間とともに暮らしていた。王が現れ税の支払いを求められると、その鳥は即座に海に飛んでゆき、魚にこう語りかけた。『私を知ってますよね。いつも一緒だったのですから。あの怠け者の王は、税金を払えと私に言うのです。』魚は、その鳥を歓迎して受け入れた。鳥は、魚たちと快適に暮らした。すると今度は魚の王が現れて税の支払いを鳥に求めた。鳥は、すぐさま水の中から飛び出し、鳥たちのところに戻ると、同じ話を語った」
上記のふたつの寓話について、ナタリー・デーヴィスは、その変遷やルーツやらの込み入った考証をおこなっている。彼女の結論は、それこそがトリックスターとしてのアル・ワッザーンの本性を語っている、と言うのだが、少々分かりにくい。ここでは、ナタリー・デーヴィスの論を離れて、アル・ワッザーンがこのふたつの寓話を好むところを私なりに想像してみたい。第一番目のむち打ちの話は、義務は友情に優先する、と解釈できる。この場合の、義務とは、職務への義務であり、アル・ワッザーンの場合の職務は、学識の追及であるから真実を語ることへの義務と考えられる。真実を語ることが非常に重要で、それは友情にも勝るものだ、と。
税を免れる鳥の話は、土地やそこの人々に固着する義務は、二次的な義務である、ということだと考えたい。アル・ワッザーンは、『アフリカ誌』において、アフリカの人々の徳と悪徳を語る。その際、アフリカ人の悪徳については、自分はグラナダ生まれなのだといい、グラナダの人々に良からぬ点があれば、自分はそこで育ったのではないと言う、のだ。
むち打ちの寓話と税を免れる鳥の寓話のふたつを結び付けると、土地に縛られず、すなわちそこの人間関係に流されず、真実を語ることの重要性が浮かびあがってくる。土地とその人々への関与を免れながら、真実を語ってゆく、あるいは行動してゆくところにアル・ワッザーンのトリックスターとしての特性があるように思えてくるのだ。
ところで、以上のいささかこじつけに過ぎる解釈はさておき、もっと単純にその挿話を味わいたい。とすると、鳥が税を免れる話には、もっと違った面白さがある。つまり、義務を免れる弁解そのものの物語、あるいは何ものにも属さない自由の感覚がそこにはある。なんだかんだと屁理屈をいって義務を免れる輩、それはある共同体にとって敵かも知れないが、しかし、そういうものが明かす真実があり、また共同体にとっても逆説的に有意義な存在となる場合があるのだと思えるのだ。
ナタリー・デーヴィスの論に戻ると、アル・ワッザーンは、実に自由にヨーロッパと北アフリカの間を、キリスト教イスラム教の間を行き来する。ただ、アル・ワッザーンは、どうちらの側にいても、一定の距離を保ち過渡の関与を避ける。北アフリカのスルタンに対しても、イタリアの教皇勢力にも一定の距離を保ちつづけた。彼は、反コンキスタドールの戦いに参加したことはあるが、ジハートという観念に熱狂したふしはない。そのような相対的な立場の取り方がユニークなのだ。そしてそれは何に由来するのだろうか、ということを考えてみたくなる。…ナタリー・デーヴィスは、アル・ワッザーンが義務を放棄し、相対的な位置取りをつづける彼の姿勢について、彼が三度の侵略・虐殺を目撃している、ことを強調する。一回目は、1517年、イスタンブールからの帰途カイロに敢えて立ちより、オスマントルコ帝国によるカイロ略取、とりわけジャニサリー(キリスト教徒子弟による最強近衛師団)による住民への略奪を目撃する。二回目は、1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪(こうだつ)(このどさくさの後にアル・ワッザーンは、チュニスに船で逃れる)、最後は(これは、証拠はないのだが)、1535年の神聖ローマ帝国カール5世によるチュニスの攻撃と略奪だ。
アル・ワッザーンのトリックスターとしての本性には、侵略や略奪や虐殺に結びつく深刻さがない。悪知恵や悪企み、するりと責任や義務を躱してしまう狡さはあっても、究極の惨劇には向かわない。硬直した対立や憎しみとは無縁な、ある種楽天的な駆け引きがあるのだ。