スーザン・ソンタグの伝記が出たらしい!

“ロンドン書評”(LRB、2019年10月24日号)で、スーザン・ソンタグの伝記 (Sontag: Her Life by BenjaminMoser)に関する書評 (James Wolcott筆)を読む。この伝記は、ソンタグの文学性、書いた文章への言及よりも、彼女の政治性-“パーチザンレヴュー”のスター、ニューヨークの知識人社会の女王になってゆく道筋・からくり-を描いてゆく。伝説化しつつあるスター知識人への伝記的アプローチとして、多くの読者のニーズに応えている、ように見える。だが、ソンタグの文章(私の場合、ほとんどが批評なのだが)にずっと惹きつけられてきた者にとっては、少し寂しい。この種の本を読んで、ソンタグを理解したつもりになって、通り過ぎてしまう人々がいるとすれば・・・。

ソンタグの初めての性体験の相手は女性であっただろう、とか、ニューヨークで最強のレズ・カップルであったとか、レズビアンとしてのソンタグに関する記述が結構ある。私はスーザン・ソンタグレズビアンであったことは知らなかった。現代芸術・文化のメッカであるニューヨークの知識人社会とは、そのようなものかと、良く分からないが半分、分かった気がしてくる。(考えてみれば、ロラン・バルトを讃えたエッセイで、彼の声の魅力について語りながら彼がホモセクシュアルである点を示唆する言葉は、何か他人事ではないような連帯感があった。)
ソンタグレズビアンもまったく初耳であったが、衝撃的なのは、彼女がアンフェタミンの重度の使用者だった、ことだ。ソンタグの精力的な知的活動は、アンフェタミンやコカインに支えられていた面があるのだ、と。大量の読書をこなし、絶えず書き、美術展のオープニングに顔を出し、その足で芝居を見、さらに映画館をはしごしていたのだという。スーザン・ソンタグは、ある面、コカインを飲みながら猛烈に働くアメリカのビジネスマンの戯画のようだ。作家は憩うことを知らなければならない、とソンタグは書いていたのだけれども。
ソンタグの批評文は、現代においてもっとも美しく・力強い。その旺盛な活動が、ドラッグに支えられていた面があるとは、なんとも、自分の無知、浮世離れを痛感する。そういえばフロイトもコカインの常習使用者だった。フロイトの文章も、ソンタグと同様に、きわめて美しい。

ドラクロワの“ライオン狩り”

“ロンドン書評”(LRB、2019年10月10日号)で、ドラクロワの“ライオン狩り”についてのエッセイを読んでいる。面白い。暴力とは何か、と問いかけてくる。ドラクロワは、暴力の美のすぐ傍らにいる、と。絵画の血の色彩は、怖れよりも、人を魅了する。人間存在と社会の根元に、「犠牲」(サクリファイス)というからくりが組み込まれている。“ライオン狩り”に比べれば、“サルダナパールの死”などは、若い画家のファンタジー(幻影)に過ぎない。…ドラクロワにおけるぎゅうぎゅう詰めの構図とは何なのか。ある種の強制を表現している。あるいは、権力との関係、ないしは怖れを表現しているのかも知れない。ドラクロワの絵画を実物で見たくなってきた。

エズラ・パウンドをめぐる二人の個性による往復書簡集; オーガスト・クレインザーラー(August Kleinzahler)

“ロンドン書評”(LRB、2019年10月10日号)で、エズラ・パウンドとモダニズムをめぐるエッセイを読む。モダニズムとパウンドにおける反ユダヤ主義の結びつきについて考えさせられた。また、文章が非常に洒脱で読ませる(語学力のみならず教養のレベルで半分も理解できたか分からないが)。

出たしからすごい。冒頭をはしおりながら訳してみよう。

1882年、ヴァージニア・ウルフとウイリアムズ・カルロス・ウイリアムズ(1882~1963、医師であり詩人)が生まれ、フリードリヒ・ニーチェは、マリング・ハンセン社製のタイプライターを購入した。そのタイプライターは、レミントン社製より性能が劣るが、安かった。(ニーチェが金欠だったのか、あるいはニーチェにケチるところがあったのか、興味深い逸話だ。) ニーチェは、おそらく梅毒による視力の減退で、タイプライターが彼の執筆の手助けになると考えたのだろう。ニーチェは、ブライドタッチを習得しようとしたが、すぐにそれは諦めた。だが以降のタイプライターによる執筆が、ニーチェの著作を、断片的なアフォリズム形に導いていった。(と、言い切れるのだろうか。ただ、モダニズムと何某かの機械文明との交錯は、示唆的である。)

このエッセイが軽妙洒脱なのは、ここでマクルーハンが登場してくることなのだ。タイプライターで箴言めいた考察を書いてニーチェのあとで、現代メディア論の起点であるマクルーハンが現れる。こともあろうに、マクルーハンは、この書簡集の一人であり当時教え子であったヒュー・ケナーに車を運転させ(ここでも、筆者は、運転したのはヒュー・ケナーでマクルーハンは運転しなかった、という余計なこと、だが陰影深い注釈をおこなっている)、入院中のエズラ・パウンドを訪ねるのだ。パウンドは、往時、ワシントンDCの病院に入院(収監か?)中だった。大戦中のパウンドのファシズム礼賛の発言が問題化していたのだ。マクルーハンという社会学者が(このとらえ方は粗雑にすぎるかも知れない)、エズラ・パウンドになみなみならぬ興味をもっていたことが、私にとっては驚きであり、新鮮なのだ。…ヒュー・ケナーはこの訪問で、強い衝撃をうけた。それは、パウンドが入院を必要とする精神の異常がまったく認めららなかったことではなく、パウンドの言葉の濃密さ、巧みさ、または罠に、さらに反ユダヤ主義に関する率直なもの言いに深い感銘をうけたのだ。

このエッセイを読んで、エズラ・パウンドとT・S・エリオットというともに反ユダヤ主義モダニズム詩人のことを思ったのだ。二つの大戦は、ヨーロッパの古典文化を破壊しつくした。二人の詩人は、それぞれの仕方で、その破壊を喪失として受け止めた。方や、二人の詩人は、アメリカ人である。アメリカにおける機械文明と強欲の競争社会は、ヨーロッパにおける古典文化の喪失と二重うつしになる。その喪失感は、モダニズム(古典的なるものの喪失としての荒涼とした現代)に向かう。モダニズムは、新たな現実への回答ではあるが、古き良き価値の崩壊の認識ぬきには成り立たなない。古典文化と良き価値観の破壊と強欲の社会の到来の陰に、じつはユダヤ人達がいる、というのがかれらの反ユダヤ主義なのではないか。

パウンドに強く影響されていた二人の個性―文芸批評のヒュー・ケナーとマルチな芸術家ガイ・ダベンポート―による内容豊かな往復書簡が昨年出版された(Questioning: VolsⅠ‐Ⅱ: The Letters of Guy Davenport and Hugh Kenner edited by Edward Burns.)、筆者オーガスト・クレインザーラーが、この往復書簡集を、屈折した物言いで寿いでいる。

東浦奈良男『信念/一万日連続登山への挑戦』(山と渓谷社、2011年)を読み進む。

写真がいい。東浦氏の登山生活のスタイルが分かる。山登り道具は大方が廃品利用なのだ。それは、必要性なのか思想なのか。ホームレスとも見間違えるその装束に恥じない心が羨ましい。が、座右の銘は『徒然草』の兼好の言葉「一事を成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥ずべからず」と言う。つまり根っから恥の感覚がないのではなく、一種の大悟なのだ。千日回峰行からの影響がある。天候も体調も関係ない。いや、大いに関係があるが超越するのだ。山を歩くこと、本を読むこと、それだけあればいい(積み上げられた本の中に、宮本常一があるのは自然としても、私小説作家、西村賢太の本があるのは何とも興味深い)。あとは、ミニマムでいい。他方、マスコミに取り上げられることを恋、願っているところもある。聖人ではなく、もともと俗世界に生きる者の聖への願いなのだ(優婆塞)。…千メートルにも満たない山に通いつめる。アルプスの高山でも百名山でもない。そうでなければならないはずだ。富士山がもう一つのターゲットだが、それもシンプルで面白い。この本が私に呼び掛けてくるのは、ヒンドゥー教徒におけるアーシュラマの遊行期のごとく、晩年は、好きなことをすればいい、歩きたければ好きなだけあるけば良い、という実に単純だがきわめて貴重なメッセージなのである。

トランプはメチャクチャだが、米国の方が健全だ!

読まずに積み上がっていた“ロンドン書評”(LRB、2019年10月10日号)をぱらぱらめくる。まず、トランプのアメリカについての記事( エリオット・ウェインバーガー筆によるその記事は、“ひと夏のアメリカ”といった格調高いタイトルがついている)を読みだすとこれが面白い。日本で報じられている以上に、トランプはメチャクチャをやっているようだ。フランスでは、トランプに批判的な女性議員を口汚く面罵した。ストックホルムでは、暴力沙汰で拘束されているラッパー、A$AP Rockyの釈放を当局に迫った。四割ものアメリカ国民が、非常時に使える400ドルの預金もないのだという。他方、トランプ大統領は、週の2.5日を自らの経営するクラブでゴルフに興じ(おそらくゴルフしながら政治をしているのだろうが、堂々とゴルフ三昧しているところがすごい)、スタッフの宿泊費やらで、がっぽり私財を潤している。越境移民に対する扱いは過酷で(一説ではナチスの集中キャンプ以上)、とりわけ問題なのは、幼児やティーンエージャーに対する収監なのだという。
阿部政権におけるモリカケ問題、今の「桜を見る会」問題、決して褒められたことではないとしても、一国のトップ政治家を、ルール違反があると批判し、それで時間を費やすことに何の意味があるのだろう。トランプはメチャクチャだが、アメリカでは、行儀が悪いといって政権の座から引きずり降ろすことはない。私は、アメリカのほうが健全だと思う。大統領は、大統領としての仕事をしていれば、どれだけゴルフに興じようと構わない。

関大徹『食えなんだら食うな』(ごま書房新社、2019)

仏教関連の本を読んでいる。仏教と言っても、ブッダの生涯や経典に関する本ではなく、現に行なわれている修行に関する本だ。修験道の本から初めて禅の本を今読んでいる。現代においては生臭坊主も少なくないと思うが、仏教諸派・諸寺で行われている行というのは、非常に厳しいものがあり、超人的なものとさえ言えるのも少なくない。そして、修行に関するいろいろな本を読み進んでいくと、良く知られている修行はごく一部で、仏教諸派・諸寺ではさまざまな行が行われていることが分かってくる。さらに、日本における仏教は、経典は二の次で修行によって成り立っている、とさえ思えてくるのだ。
修行には、単なる苦行で終わらないところ、人を魅了するところがあるようだ。修行は、強制されてするものではなく、自らが進んで行う面がある。悟りというような分かりやすいものではないとしても、一種の精神的鍛練による充実(恍惚とさえいう者がいる)の感覚が得られる。
私がかろうじて理解できる原始仏典(たとえば、中村元訳『ブッダの言葉』岩波文庫)などでは、ブッダバラモン教における厳格な規則づくめの儀礼と過酷な苦行を否認し、信仰の自由でおおらかな姿(人々の救済)を肯定した、ことが理解できる。それは一大改革であった、と思える。反対派にブッダは命を狙われたこともあったからだ。だが、日本の仏教の底流には、苦行の伝統があり、苦行が教団の原動力になっている、のではないだろうか。苦行を問題視したブッダの教えと、日本仏教のなかの苦行の伝統はどう折り合っているのだろう。

<最近読んだ行に関する本>
・宮城泰年、田中利典、内山節『修験道という生き方』(新潮選書、2019)
・田中利典『体を使って心をおさめる修験道入門』(集英社新書、2014)
・田中利典、正木晃『はじめての修験道』(春秋社、2004)
・塩沼亮潤、板橋興宗『大峯千日回峰行』(春秋社、2007)
光永圓道『千日回峰行を生きる』(春秋社、2015)
酒井雄哉『一日一生』(朝日新書、2008)
・関大徹『食えなんだら食うな』(ごま書房新社、2019)

『ウソつきの構造・法と道徳のあいだ』角川新書、1919

久しぶりに中島道義の本を読む。なかなか厄介な問題を投げかけている。われわれの退廃の根本は何か。真実を、具合が悪いと覆い隠すことだ、あるいは別のこと(ウソ)を言うことだ、と。誠実(内面的な道徳意識)とは、どんな場合にも(親のためでも、組織の防衛、その組織に携わる多くの人々の不幸を招くとしても)、ウソを吐かないことなのだ、と。
この本で批判・検討されるのは、日常的に繰り返されるお世辞のようなウソではなく、「法に守られたウソ」だ。「法に守られたウソ」とは、たとえば、安部首相にまつわる森友・加計問題だ。どう考えても、安倍首相の事件への関与は明白なのに、証拠が出ない以上は、知らないとウソを吐きとおす。確かな証拠がない以上、近代法は裁けない。安倍首相は、ウソでも関与を認めずに政権を維持することが自民党の利益であり、ひいては日本のためでもある、と信じているのだろう。
このようなウソがまかり通るということこそ、この日本で巨大な道徳的退廃が現在進行しているのだと、中島道義は訴える。そのような「法に守られたウソ」を容認する我々の退廃を突く。
しかし、中島道義が依拠するカントの理性主義は、私の感覚からすると、何かとても窮屈だ。理性で推し量られる真理もまた限界がある、と言いたくなる。
されど、ウソは、人間を退廃させる、こともまた確かなことなのだ。
真実はこみいっている。それを十分に説明し納得してもらうことは非常に手間暇がかかり、かつ難しい。こみいった事情をウソによってうまく説明する人たちがいる。手慣れたその種のウソをつく人にはなりたくない。