エヴァン・モウズリー『海事の第二次世界大戦史』、Evan Mawdsley, The War for the Seas: Maritime History of World War Ⅱ, Yale University Press in 2019

1.読み始め

二葉亭四迷の言葉「文学は男子一生の事業にあらず」を思いだす。そのとき文学者は、男子一生の仕事をどう考えていたのだろう。「戦争と革命」というようなことを私は想像するのだが…。

この本、『海事の第二次世界大戦史』は、左派的な論調で知られる“ロンドン書評”で知った。従って、軍事オタクの好む軍事史というよりは、反戦の思想による戦史、もっと言えば「政治の延長としての戦争」に記述の中心があると思っていた。しかし、この大冊(600頁)を読みだすと、違った。兵器の話、作戦のデティール、軍中枢の思惑と、戦争という現象について豊かに語っている。この大きな本に退屈しないのは、軍事の具体性を手放さず、そのうえで戦略が分析され、さらに言えば、論理を逸脱する偶然の展開がしばしば語られることだろう。

ここでひとまずの感想、戦争は血沸き肉おどるけど(その牽引力を甘く見てはいけない)、その犠牲も膨大なものなのだ、と改めて思う。一隻の艦船が撃沈されれば、数千人の人々の生命が即座に失われるのだ。
あるいは、戦争はある種、人々を聖化する。しかし、その崇高さの感覚は、犠牲の多さには到底ひきあわない。だが、そのようなことは十分に分かっているつもりでも、その膨大な、取り返しようのない損失がしばしば繰り返される。

(つづく)

『木坂涼詩集』(現代詩文庫150、1997年思潮社)

現代詩を読んで久しぶりに感動した。つまらない人生だが(少なくとも私の生は…)、それを大事に扱うのが詩だ。「シーツを/ぴんとはろうとして/手をのばしていって/しわをだしてしまうように/田んぼの水を/風が/押してゆく」あるいは「ゴミの袋を/さげた人が黙って並ぶ/袋の中では/おしゃべりが/賑やかだ/袋の口をぎゅっと握る」。さりげない日常の断片を描く言葉というより、詩人の心のさざ波が聞こえてくるようだ。それはとても透明で深い。お勉強してその成果を人に自慢するようなところが全然ないのがとてもいい。

ドストエフスキー『罪と罰』(亀山郁夫訳、光文社文庫、原作初出1866年)

ドストエフスキー罪と罰』を、また読み始める。今度は、最後まで読み通そう。

罪と罰』を読み続ける。つまらなくないが、私はかなりの程度、小説好きではなく、エッセイの方を好むのかも知れない、と思い始めている。

罪と罰』、面白い。次々に出来事が繰り出されてゆく。しかし、田舎のまじめで優秀な青年の悩みに関する小説だ。それは、ノスタルジックにさえ見える。

1969年をピークとする反体制運動における内部矛盾を思うとき、ドストエフスキーは輝きをもっている。これは、埴谷雄高等が語ったことだ。小林秀雄ドストエフスキーは何を語っているのだろう。…理念による破壊の正当化とその退廃を、私は考える。

罪と罰』が面白くなってきた。1巻を読了。真面目腐った議論を緩和しているのが推理小説的な展開だろう。だが、もっと面白い推理小説はごまんとある。

罪と罰』、ドゥーニャは、婚約者ルージンと喧嘩別れとなる。ドストエフスキーは、金がすべてではない人々を描いているのだ。あるいは、人間の破滅への夢(フロイトのいうタナトスに近いか)を描いている。また、世渡りがすべての俗物を憎々しげに描いている。

ペテン師で好色漢のスヴィトリガイロフの自死は一体何を意味するのだろう。
スヴィトリガイロフの死は、19世紀的でロマンチックで予定調和的である。
彼が、生きのびて悪事を重ね、快楽を追求してゆく姿こそ現代的なのだが…。

ドストエフスキーは、何を描いているのだろう。…神を信じている人々を描いている。主人公は、無神論の立場を明確にしているが、神を信じる人々の存在を、否定できないだけではなく、尊重せざるをえないようになってゆく。

罪と罰』、快調に3巻、380頁まで読み進む。面白いが、人生ということを口にだして悩む19世紀の小説で、私のものの考えかたを根本から揺さぶるものではない。ゼーバルトの小説にある今を生きる希薄な感覚のリアリティーはない。『罪と罰』には、明瞭な狂気がある。今の私には、明瞭な狂気よりも澱んだ、明確な輪郭をかく現実感覚の方が、親しめる。
(『ハムレット』の狂気は、ドストエフスキーの心理学の教科書で学んだような狂気よりも深い。)

罪と罰』は、結局のところ、19世紀の小説である。ラスコーリニコフの苦悩は、ソーニャの理性を超えた愛情によって救済される。ソーニャは、ラスコーリニコフの理屈を肯定しないが彼の苦悩を認める。少なくとも、私にはそう見える。…現代ならば、この関係はないだろう。現代のソーニャは、ラスコーリニコフから去ってゆくのみだ。

エリザベス・ストラウト『オリーブ・キタリッジの生活』(小川高義、早川書房、原著2008年刊)

これはなかなか素敵な小説なのだ。主人公のキタリッジという名前もいい。(実は、この小説を読んでみようと思ったのは、このキタリッジという名前(どこに根を持つ名前だろう)に惹かれたからかも知れない。
アメリカ東部、ニューイングランドの海岸町クロズビーは、静かな小さな町である。主人公のオリーブ・キタリッジは、街の高校の数学教師である(であった)。しかし、この小説中に数学に纏わる話は一切でてこない。そして、皆が彼女を良く思っているわけではない。彼女は、どうもかなり肥満しているようだが、今さら、食べる楽しみを制限したい、とは思わない女なのだ。(ちなみに携帯電話も持たない。)
はじめは、こんなに次々事件が起きるのだろうかと違和感を感じた。が、進むにつれて、物語のなかにひき込まれていった。それにしても、どんどん人々が死んでゆく。薬局で働く若い子のダンナは、猟にいって事故死し、オリーブに淡い恋心を再燃させた学校の同僚は、車を暴走させ事故死する。人の好い(オリーブの辛辣な言い方が面白い)夫のヘンリーも脳溢血で倒れたあと死んでゆく。それに、オリーブの父親は自死したのだ。エリザベス・ストラウトという小説家は、想像の人殺しか。……確かそうに見える日常は、ちょっとしたことがきっかけで崩れ去ってゆく。そして、クロズビーに留め置かれている人々と、流れ流れてゆく人々(駆け落ちしていく娘や伴侶と彷徨い行く息子)の交感のようなものが小説の核心になっている。
この小説は、老人の我儘と癇癪を肯定し、歌い上げ、若者の流離を描く。しんみりと、人生の少しの幸せと、いっぱいの寂しさを味あわせてくれる。

岩鼻通明『出羽三山』(岩波新書、2017)を読む!

多くの日本人の根にある山岳信仰のひとつの姿を辿る!
かくも豊かな信仰の姿、陰影ある文化が、近代化の圧力のもとで命脈を絶たれかけていた。この本は、どうにか生き永らえた出羽三山山岳信仰について、その活動(修験道)、古い記録(芭蕉出羽三山詣でをした庶民の筆になるの“道中記”)、その組織(講)、寺社の盛衰や聖・上人について、あるいはまた、自分の足で歩いた出羽三山、その地の伝統食(たとえば精進料理)について語る。とくに私の興味を引いたのは、終章近くで述べられている即身仏についてだ。すさまじい祈りの姿が想像される。近世の湯殿山で、一世行人(いっせいぎょうにん)と呼ばれる信仰者が、世のあらゆる苦しみを引き受けるかのようにして入定(にゅうじょう)された、と言うのだ。
これは、ある種、日本人の根本にあるメンタリティー(山を通しての信仰)への近接への試みであるかも知れない。そういう意味で、この本は、何かしら懐かし感覚を呼びおこしてくれる。
他方で、大きな疑問も湧いてくる。
そのように庶民に人気があり、また庶民の生活を側面で支えていた修験が、明治期の近代化の号令のもとに、なぜかくも容易に解体してしまったのか。隆盛を誇った江戸期の修験がすでに完璧に体制内化していたためだろうか。
いろいろな疑問が湧いてくるなかで、何か出羽三山を実際に詣でてみたくなってきた。

藤澤清造『根津権現裏』(新潮文庫、原著1932年刊)を読む

根津権現裏』を読み始める。面白い。このような私小説を読んでいると、私小説だけを読んでいたい、という気持ちになる(ゼーバルトの一人の感覚も悪くなかったが…)。もっと陰惨なものかと思っていたが、ある種、明るくすっこ抜けたところがある。

貧しい上京青年の理想主義と世間の俗物との対比が、この小説の根にある。理想主義的なのは、自死した親友の岡田と自分だ。小金にけちけちしている岡田の兄と、会の金を横領した宮部が俗物になる。ただ、この対比が図式的に展開しているわけではなく、岡田の理想主義も、精神衰弱によるのか迷走するし、宮部の横領にしても、そこには他人に伺い知れない事情があるはずで、それを自分(谷口)は知らないのに一方的に非難はでいない、と至極まっとうな見識を示す場面もある。

根津権現裏』は、貧しさを(金欠のやり繰りを)、病を、欲情を、無学歴をこれでもかとこれでもか繰り返すような小説ではない。貧困、宿痾、買淫、向学心はあっても、吝嗇で卑しい俗世間にまみれることを潔しとしない、人々についての小説なのだ。

自死した岡田の兄の故郷(石川県)の方言がいい。「ほいからどなったいね」と、兄は、臆することなく方言で話す。他方、岡田にしても、自分(谷口)にしても、標準語を操るのみなのだ。兄の方言には、土地とは切り離せない、ある種の安定感がある。標準語の達者な青年達は、知的で理想主義的であっても、弱々しい。

根津権現裏』は300頁まで読み進む。岡田の自死めぐる謎解き(岡田を死に至らしめた本当の理由は何なのか)に傾いていく。私小説のもうひとつの可能性を示していると評価する向きもあろうかと思うが、好悪の分かれるところだろう。しかし、これもまた私小説と考えたい。その意味で『根津権現裏』は、きわめて実験的な私小説なのである。

ケン・ローチ監督の映画“家族を想うとき”を見る!

今評判になっている“家族を想うとき(Sorry We Missed You)、2017年”は、まったく首肯できない映画だった。映画監督の巧みさはある。魅力的な俳優を使い(特に母親役が、どこにでもいそうな普通の人でありながら不思議と魅力的だ)、観客が感情移入しやすいような筋を作り(反抗的な息子は、実はとても頭がいい)、そして未来を少し先取りした誇張(宅配運転手のもつ端末コンピュータは、すべての情報を集約し、ドライバーを案内し監視する)が娯楽的だ。しかし、問題は、ドグマ-格差社会のなかで、過酷な労働と収奪が家族を破壊してゆく-が先行し、ドグマが先にあって映画作りが行われていることだ。格差社会についてのドグマは理解できる。が、映画、文学、芸術は、ドグマを描くものではなく、分からないが気になる現象を描くことに意味を見出し、価値を明らかにしてゆくものだ。“家族を想うとき”という映画は、何か、説教を聞かされている気分になる。